先週、大学で卒業研究の際にお世話になった教授が亡くなった。私は大学院に進学しなかった
ので指導を受けたのは1年と短かったのですが、とても思い出深い方でした。
まずは環境から
その研究室は一部の学部生から「工務店」と呼ばれていました。新人が入ってくる春に
研究室(または関連施設)の工事をするのです。
私が入った年には生物飼育棟(海洋生物)の小さな「流し」を、となりの生物飼育棟(昆虫)
の大きな「流し」と交換するという工事でした。
噂には聞いていたけれど、水道管をつなげ変えるような本格的な工事を学生だけで行うことに
すごく驚きました。同時に「流し」を交換しても「あまり意味なくない?」とか「施設科の
人は迷惑に思っているのでは?」と思ったものです。
他にも、あまり利用する人が居なかった理学部の工作室(本格的な旋盤もある)を利用して
自分の実験にあった実験器具を作成したり、卒研に利用するスライドを暗室で現像したり
他の研究室ではしないことをたくさん経験させて貰いました。
そんなこんなで卒業し、社会人としてしばらく暮らした後で思ったのです。
あれは「よい仕事をするためには、環境から構築すべきだ」ということを伝えるための
行事なのでは?と。その時には疎遠になっていたので、確認することもできません
でしたが、私は今でもそう思っています。
卒論が受け取ってもらえない
院に進まない学生に対しては、適当な卒論でも受理してくれる研究室が多いなかで
その研究室は進学しない学生にもきちんと指導してくれました。
日本語は曖昧な表現が許されるけれど、人に伝えるためには誤解されないように
曖昧な表現を廃して正確に記述しなければならない。おまえは主語を省略しすぎる。
二重否定なんて使うな。などよく言われました。
卒論は6回も修正(主に文体)して、7回目にようやく受理されました。
サークルで絵本とか作っていたので、曖昧な表現が好きだったのですよ。
→参考:web絵本「ぶきようだけど」
実験の成功?失敗?
卒研では私の立てた仮説を裏付ける結果が6回中2回しか取れませんでした。しかし何故か
学会で発表することになりました。当時私は仮説が裏付けられず「失敗」したと考えていた
のですが、6回中2回発現している「事実に失敗も成功もない」と言われたのを覚えています。
ちなみに学会当日は卒業式の数日後で学籍もなく、学会員でもないので本来は発表する事は
できないのですが、強力なコネでねじ込まれました。
コネの善し悪し
その研究室では毎年OBも参加する設立パーティがあり、私も卒業後2,3年は参加して
いました。そこで覚えているのは「もうすぐ退官で卒業生の面倒を見ることができない
から卒研生は取らない」と言っていたことです。
(実際は研究室は助手の方が助教授になって受け継ぎ存続しています)
「社長の血縁とかで不当に高い地位にいる」とかのコネは良くないと思いますが、
きちんと育てた人材を他所に紹介するのは悪いことではないと思うのです。
私は他の分野に興味が移っていたので研究室とは関係ない方向に進みましたけどね。
指導教官の責任
上記のように先生は、後進の育成に責任を持ってあたっていました。だから、
STAP細胞の問題で小保方さんの上司の方には少しモヤモヤしてしまう。
大学が合併したので、正確には母校ではないけれど「ドブスを守る会」の指導教官にも
モヤモヤしてしまう(結局、解雇処分になったようですが)。
研究室では実験動物も現地調達(採集)することが多く、以前に磯で卒研生(女子)が
足を切ってキズが残るケガをしてしまった事件があったらしい。先生が酔った時に、
その時のことを凄く後悔していると話していた。でも私が卒研生の時に、その方は
博士課程で研究室に戻ってきていて、そんなことは気にしておらず、先生のことを
尊敬していたけれど。
(その方いわく、先生が男気に溢れすぎていて他の男子研究生がしょぼく見える。)
そんな事件があったためか、ジャマイカに棲息する珍しい生き物を採集する時に、現地の治安を
鑑みて女子の先輩が連れて行ってもらえず、酔った先輩に八つ当たりの膝蹴りを頂いた。
ついでに
実は先生には研究室に入る前にもお世話になっていました。私は大学には経済学部で
入学したのですが、思っていたのと違ったので理学部(生物)への転部を計画したのです。
最初に学生相談室に行ったのですが、そこでは「理学部は実験にお金がかかるため
退部者がいない限り転部はできない」と言われ、納得できる理由であるものの
サークルの理学部の友達に愚痴ったら、その友達が実習で仲の良かった先生に
話してくれて、その先生から理学部の教授会に議題として上がることになった。
教授会の結果、1,2年の生物科の必修の授業を受け、その結果次第では転部を認める
というものでした。このときの教授会をまとめている理学部長が先生だったのです。
結局「実験にお金がかかる云々」は安易に転部を認めないための方便なのでしょうね。
ちなみに経済学部では何でも数学(統計)で解決してしまう?計量経済学を学ぼうと
思っていたのですが、前提条件が多すぎて実際の利用には役に立たない!(いや、
若気の至りでこんな事思ってしまっただけで、計量経済学が金融工学にも繋がる
役に立つ学問です)そんななか、色々関連書籍を読んでいたら「人工生態系」なる
ものに出会ったわけです。人間のような複雑な意志が存在しない生物なら
数学的な予想が現実に近いのではないか?それをコンピュータ上でシミュレートして
確認する人工生態系。生物って面白そう!ってな感じです。で転部していろいろ
心移りしながら最終的には神経生物学の研究室に入りました。
人間関係って難しい
研究室の助手の方にも良くして頂いたのですが、お葬式の献花に名前を確認することが
できませんでした。この方は少し細かいためか、他の研究生(特に私の指導に当たる先輩)
から距離をおかれていたのを覚えています。先生も若干、そのことを気にしていたような..
私が最初に「先生」と話しかけた際には「研究室で先生と呼んでいいのは○○先生だけだ」
と注意されたのを覚えています。あと薬品などの出入り業者の方に敬語を使った時にも
なにか注意されました。そして学内の卒研発表会の時に白衣のポケットに片手を入れて
いたことはひどく注意されました。
ですが実験の丁寧さ器用さは認めて頂いて、共同研究している他の大学の研究室に
つれていってくれたり、院への進学を勧めてくれたり良くして頂きました。
研究室では海洋生物(一部で話題のグソクムシもいました)と昆虫を扱っており、
海洋生物は三浦半島の漁師さんにお願いして頂いていたのですが、そこで採れない
生物は築地に買いに行ったのを覚えています。お寿司ごちそうさまでした。
研究室には助手が2名いたのですが、1名は海外に客員研究員としてでていました。
先生の退官後は、この方が助教授になって研究室を受け継ぎました。
他の研究室でも派閥の話しはたくさんあり、いろいろ大変なんだなって
思いましたが社会に出たらもっと大変でした。最初に入った会社で
デザイナーVSプログラマーの対立からのプログラマーの大半が一斉退職。
最初にデザイナーの部署に配置されたあとプログラマーに転部した私には…。
なんだか長文になってしまいました。